【ベトナムの歴史7】ホーチミン氏とベトナム独立の軌跡

ベトナム旅行・生活

ベトナムの歴史シリーズ第7弾です。

前回は、フランスによる植民地支配がはじまり、ファンボイチャウ氏・ホーチミン氏による独立への戦いを取り上げました。

ベトナムの歴史は多くの転換点を経ていますが、1945年は特に注目すべき年です。

この年、ベトナムは日本とフランスの二重支配から脱し、ホーチミン氏の指導の下で独立を勝ち取りました。しかし、その後すぐに新たな戦争、インドシナ戦争が始まります。

この記事では、ホーチミン氏がどのようにベトナムの独立運動を指導したのか、そしてその影響は今日までどのように続いているのかを詳細に解説します。

【第6話:ベトナム独立運動:フランス植民地時代からホー・チ・ミン氏のリーダーシップこちら!】

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ホーチミン氏による独立運動

香港で同士を集める

海外を行き来してた際のホーチミン氏

ホー・チ・ミンは、ベトナムの独立を求める活動の中で、多くの国々を訪れていました。

彼は、ヨーロッパやアメリカをはじめとする多くの国で、反植民地主義の運動や共産主義の思想に触れる機会がありました。

1920年代には、彼はアジアの植民地解放の動きが活発化していることを知り、香港を訪れました。香港は、当時、多くのアジアの独立運動家が集まる場所であり、彼はここで多くの同志との交流を持ちました。

ベトナム国民党の創設の経緯

1927年にベトナム国民党(Việt Nam Quốc dân đảng)は、ベトナムで設立されました。

「フランスの植民地支配に対する反対と、ベトナムの独立を目指す」ために結成

当時のベトナムは、フランスの植民地支配下にあり、多くのベトナム人が独立を求める運動を展開していました。ベトナム国民党は、この独立運動の中で、より組織的な形での抵抗を目指すために設立されました。

ベトナム共産党およびインドシナ共産党の設立の背景と意義

1930年、ホー・チ・ミンは香港でベトナム共産党を設立しました。

ベトナム共産党の旗

この党の設立は、ベトナムの独立を求める運動が、より組織的で効果的な形での抵抗を目指すためのものでした。

また、共産主義の思想を取り入れることで、国際的な支援を得ることも目指していました。

10月には、この党はインドシナ共産党と改称されました。

これは、ベトナムだけでなく、ラオスやカンボジアなど、インドシナ全体の独立を目指すためのものでした。

インドシナ共産党の設立は、インドシナ半島全体の植民地解放の動きを組織的に進めるための重要なステップであり、後のベトナム独立運動の基盤を形成するものとなりました。

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日本の進出

日仏二重支配のはじまり

1940年代初頭、日本は太平洋戦争を見越して、南方資源地域への進出を計画していました。

そのため、ベトナム北部のハイフォンやその他のインドシナ地域は、日本にとって戦略的に重要な位置にありました。

  1. 資源の確保: 日本は、アメリカとの石油禁輸を受けて、南方の資源を確保する必要がありました。インドシナは、そのルート上に位置していたため、日本にとって重要な地域となりました。
  2. 中国への封鎖: 日本は中国との戦争(日中戦争)を継続しており、中国への物資供給ルートを遮断するために、インドシナの制御を強化しようとしていました。ハイフォンは、中国への主要な供給ルートの一つであったため、日本はこの地域を重視していました。

日本はフランスのヴィシー政府と交渉を行い、インドシナにおける日本軍の進駐を要求しました。

この時期、フランス本国はドイツに占領されており、ヴィシー政府はドイツに対して協力的な姿勢を取っていました。このため、フランスのヴィシー政府は日本の要求に対して強く抵抗する立場を取ることが難しく、日本の要求を受け入れることとなりました。

日本軍の進駐

1940年9月、日本軍はフランスの同意のもと、ハイフォンやハノイなどの主要都市を平和的に進駐しました。この進駐は、大規模な戦闘や抵抗を伴わずに行われました。

  1. 日仏二重支配: 日本軍の進駐後も、ベトナムの行政権はフランスの植民地政府が保持し続けました。しかし、実質的な軍事的権力は日本が握っており、この状態は「日仏二重支配」と呼ばれました。
  2. 独立運動の活性化: 日本の進駐は、ベトナムの独立運動を活性化させる一因となりました。日本は、アジアでの「大東亜共栄圏」の構築を掲げており、これに触発されたベトナムの独立運動家たちは、独立を目指す活動を強化しました。
  3. ベトミンの台頭: 日本の進駐とそれに続く太平洋戦争の混乱を背景に、ホー・チ・ミン率いるベトミン(ベトナム独立同盟)が台頭しました。
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太平洋戦争の勃発

ベトミンの旗印が、のちのベトナム国旗となる

ホーチミン氏の帰国

1941年、グエン・アイ・クォックは中国を経由してベトナムに帰国します。このとき、彼は中国の共産党との連携を強化し、ベトナムの独立運動を支援するための基盤を築きました。

帰国後、彼は北部の山岳地帯、パクポに根拠地を確立します。

この地域は、フランス植民地政府や日本軍の手が及びにくい場所であり、独立運動の拠点として適していました。さらに「ベトナム独立同盟(Việt Nam Ðộc Lập Ðồng Minh Hội 」、通称ベトミン(Việt Min)を設立します。ベトミンは、ベトナムの独立を目指すさまざまな勢力を統一する組織として活動しました。

グエン・アイ・クォックは、この時期に「ホー・チ・ミン」という名前に改名します。

この名前は「明るい光」という意味を持ち、彼のリーダーシップの下でベトナムの独立と発展を目指すという意志を示しています。

1941年12月8日、太平洋戦争が始まります。この戦争は、ベトナムにおける日本の影響力を強化することとなりました。

「ベトナム武装解放宣伝隊」結成

WIKIより

1944年は、ヴォ・グェン・ザップ(武元甲)は、ホー・チ・ミンの密命を受け、「ベトナム武装解放宣伝隊」を結成しました。

この組織は後に「ベトナム人民軍」の前身となり、ベトナム独立のための軍事的基盤を築く初のステップでした。

当初は非常に小規模かつ武器は最初は非常に限られておりながらも、その目的は明確で、フランスと日本の占領に対する抵抗と、ベトナム人民の解放を目指していました。

ベトナム共和国設立

日本の敗戦

明号作戦で港に入る日本軍(WIKIより)

1945年、ベトナムはまさに歴史の転換点に立っていました。

飢饉が国を襲い、数十万人が命を失いました。この飢饉は、日本とフランスの支配に対する不信感と怒りを高め、ベトミンとその独立運動に対する支持を一層強めました。

3月には日本軍が明号作戦を発動し、フランス軍を武装解除。バオ・ダイ帝が独立を宣言しましたが、多くのベトナム人にとって、これは日本の傀儡政権に過ぎませんでした。

そして、8月15日に日本が連合国に無条件降伏すると、翌日ベトミン(ベトナム独立同盟)は総蜂起指令「八月革命」を出しました。

ベトナム民主共和国の独立を宣言

ベトミンは、ハノイの行政機関を占拠、フエに「革命軍事委員会」樹立、バオダイ帝は退位しました。

9月2日にはホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の独立を宣言」しました。

この年はまた、「ベトナム解放軍」が創設され、サイゴンに「南部暫定抵抗委員会」が樹立されました。

しかし、その後すぐにフランスがサイゴンを占拠し、ベトナムに対する植民地支配を再開しようとしました。これが後のインドシナ戦争(第一次インドシナ戦争)へとつながります。

インドシナ戦争

1946年、フランスはベトナム南部にコーチシナ共和国を樹立し、その影響力を維持しようと試みました。しかし、この年にハイフォンでベトミンとフランス軍が武力衝突を起こし、その後ハノイで全面衝突が発生。これがインドシナ戦争(または第一次インドシナ戦争)の始まりでした。

ホー・チ・ミンは全国に対して抗戦を呼びかけ、インドシナ共産党も対仏抗戦指令を出しました。

1949年には、コーチシナ共和国はバオ・ダイを元首として「ベトナム国」と改名されました。

この年はまた、中華人民共和国が成立し、ベトミンにとっては大きな後ろ盾ができたと言えます。フランスは、戦後の名誉回復、経済的利益、そして冷戦の文脈での地政学的戦略など、複数の理由でベトナムに影響力を維持しようとしました。

そして1954年、ディエンビエンフーの戦いでベトミン(ベトナム人民軍)はフランス軍を破り、フランスは降伏。この勝利がもたらしたジュネーブ協定により、北緯17度線を暫定的な軍事境界としてベトナムが南北に分割されました。

まとめ

ホーチミン氏は、多くの国々を訪れ、反植民地主義と共産主義の思想に触れ、ベトナムの独立運動を組織的に進めました。日本の敗戦後、ベトナムは一時的に独立を勝ち取りましたが、その後すぐにフランスが再度支配を試み、インドシナ戦争が勃発しました。

しかし、ベトナム人民は絶えず抵抗し、最終的には独立を実現しました。この歴史は、今日のベトナムがどのように形成されたのかを理解する鍵となります。

【第8話:ベトナム戦争の全貌:冷戦、アメリカ介入は、こちらから!】

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