【ベトナムの歴史6】ベトナム独立運動:フランス植民地時代からホー・チ・ミン氏のリーダーシップ

ベトナム旅行・生活

ベトナムの歴史シリーズ第6弾です。

ベトナムは長い歴史の中で多くの試練と変遷を経験してきました。

特に、19世紀から20世紀初頭にかけてのフランスの植民地支配は、ベトナムの独立運動の背景を形成する重要な時期でした。

この記事では、その時期のベトナムの歴史と、独立に向けたファン・ポイ・チャウやホー・チ・ミンの政治活動の背景に焦点を当てて解説します。

【第5話:胡朝から阮朝までの動乱と欧州列強の到来は、こちら!】

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なぜベトナムはフランスの植民地になったのか?

1840-1842年: アヘン戦争

1840年から2年間、イギリスと清国との間でアヘン戦争が発生しました。

この戦争の背景には、イギリスが清国に対してアヘンを大量に輸出し、これによって清国内での銀の流出が激化したことがあります。清国政府はアヘンの取引を禁止し、イギリス商人のアヘンを押収したことで、イギリスは軍事的報復を開始しました。

戦争は1842年に終結し、南京条約が締結されました。

南京条約の主な内容は以下の通りです。

  1. 香港島の割譲: 清国は香港島をイギリスに永久に割譲しました。
  2. 五口通商制度の確立:5つの港 (広州、福州、厦門、寧波、上海)を開放し、イギリス商人がこれらの港での貿易を自由に行えるようになりました。
  3. 賠償金の支払い: 清国はイギリスに対して2100万両の銀を賠償金として支払うこととなりました。

この戦争の終結において、ベトナムに直接の影響はもたらさなかったもののベトナムも西洋列強のアジア進出の現実を目の当たりにし、自国の防衛の重要性を痛感させられる一方で、フランスのベトナム進出が現実のものとなる前触ともされ、ベトナムの近代史における重要なターニングポイントとなりました。

フランスによるベトナムへの武力侵攻

19世紀半ば、フランスは東南アジアでの植民地拡大を目指しており、ベトナムはその戦略的な位置から重要な目標となっていました。

1858年にフランスは、キリスト教宣教師の保護を名目に、アジアにおける植民地拡大を目指してベトナムの重要な港町ダナンを攻撃しました。

ベトナムはフランスの真の目的はベトナム全土の植民地化であることがわかり必死の抵抗をおこない、フランスは大損害を受けて撤退を余儀なくされました。

第一次サイゴン条約

この失敗後、1859年にフランスは戦略を変更し、南部の重要な商業都市サイゴンを攻撃し、ベトナムは激しく抵抗しましたが、最終的にフランスによって占領されました。

1862年には、この占領を受けて第一次サイゴン条約が締結され、ベトナムはコーチシナの3省(Gia Định,Biên Hòa,Định Tường)をフランスに割譲しました。この条約により、フランスはベトナム南部の一部を実質的に支配下に置きました。

第一次サイゴン条約の主な内容は以下の通りです。

  1. 領土の割譲: コーチシナの3省をフランスに割譲
  2. 賠償金: フランスに対して400万フランの賠償金を支払う
  3. 通商条項: サイゴンを含む数カ所の港が開港され、フランス商人に対して特権が付与
  4. キリスト教の自由: キリスト教の布教と信仰が自由となり、キリスト教徒への迫害を禁止
  5. 外交特権: フランスがベトナムに対して外交特権。ベトナムの外交はフランスを通じて行われる

第二次サイゴン条約

その後の約10年間でベトナムは内紛と政治的不安定が続く中で反フランスの抵抗が高まりましたが、フランスはコーチシナの安定化を図りつつ北上してトンキンへの進出を図りました。

1874年には、この状況下で第二次サイゴン条約を締結し、ベトナムはさらにコーチシナの6省(Vĩnh Long,An Giang,Hà Tiên,Châu Đốc,Sóc Trăng,Bạc Liêu)をフランスに割譲し、フランスはベトナム全土に対する保護国化を進めることとなりました。

第二次サイゴン条約の主な内容は以下の通りです。

  1. 領土の追加割譲: コーチシナの3省をフランスに割譲し、計6省がフランスの支配下
  2. 赤河デルタの権益: フランスはベトナム北部の赤河デルタ地域における権益を確保
  3. 通商条項の拡大: 新たな港が開港され、フランス商人の特権がさらに拡大
  4. 外交権の制限: ベトナムの外交権がさらに制限。フランスを通じてのみ外交活動を行う
  5. 宣教師の保護: キリスト教宣教師の保護再確認。宣教師やその信者に対する迫害を禁止
  6. フランスの軍事的権益: ベトナムの要塞や軍事施設に対する権益を確保

清仏戦争と天津条約

1883年に起きた清仏戦争は、フランスがベトナムの保護国化を進めようとしたことに対する清国の反発から始まりました。この戦争はフランスの勝利に終わり、清国はフランスのベトナムに対する保護領化を事実上受け入れる形となりました。

1885年の天津条約は、この戦争の終結を形式化するものであり、清国はフランスのベトナム保護領化を正式に承認し、自身のベトナムに対する主権を名目的なものにしました。

この条約によって、ベトナムは事実上フランスの保護国となり、その独立と主権は大きく損なわることになりました。

天津条約条約の主な内容は以下の通りです。

  1. ベトナムのフランス保護領化の承認: 清国はフランスのベトナムにおける保護領化を承認
  2. 清国のベトナムに対する主権の放棄: 清国はベトナムに対する主権を放棄
  3. フランスと清国の国境確定: ベトナムと中国の国境が確定され、両国の間の紛争が解消された。

仏領インドシナ連邦設立

1863年にカンボジアの国王ノロドムがフランスと保護条約を結び、カンボジアをフランスの保護国としたのを皮切りに、1893年にはシャムとのパキナム事件を経てラオスのメコン川左岸地域の支配を確立し、ラオス全土をフランスの保護国としました。

そして、1899年にはこれらの保護国(カンボジア、ラオス)とベトナム(コーチシナ、アンナム、トンキン)を統合し、仏領インドシナ連邦を設立します。

これにより、フランスはインドシナ半島全域にわたる統一された行政体系を確立し、その支配を強化し、ベトナム、ラオス、カンボジアは長い植民地時代を迎えました。

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ファン・ポイ・チャウの独立への戦い

20世紀初頭、フランスの植民地支配に対するベトナムの独立運動が始まりました。

その先頭にたったのが、ファン・ポイ・チャウ(Phan Bội Châu)でした。

彼は、ベトナムの独立運動の先駆者であり、国の近代化と独立のために尽力しました。

1904年に「Duy Tân Hội(維新会)」を設立し、Cường Để(クオン・デ)侯を会長に迎え、ベトナムの独立と近代化を目指し、多くの青年が集まることとなりました。

日本への支援依頼

ファン・ポイ・チャウは、日本が明治維新を通じて急速に近代化を達成し、アジアで唯一の独立した近代国家であることに強く感銘を受けました。彼は、日本の経験がベトナムの独立と近代化のためのモデルとして役立つと考えました。

1905年に日本を訪れた際、彼は大隈重信、犬養毅などの日本の政治家と面会しました。これらの指導者たちは、ファン・ポイ・チャウのベトナム独立のビジョンに共感し、ベトナムの青年たちが日本での教育を受けることを支援しました。

ファン・ポイ・チャウは、この訪日を通じて、武力による独立よりも、教育と啓発を通じた人材育成の重要性を深く認識しました。彼はベトナム青年の日本留学運動を積極的に推進し、多くのベトナム青年が日本での教育を受ける機会を得るよう努力しました。

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ドン・ズン(東遊)運動

1907年から1908年にかけて、ベトナム青年の日本留学を推進する「Đông Du(ドン・ズン)運動」が始まりました。

この運動は、日本とベトナムの間の友情や連帯感を強化する契機となりました。

特に、浅羽佐喜太郎はベトナムの独立運動を支援するための資金を提供し続け、多くの日本人がベトナム留学生のために資金や物資を提供しました。

1907年には、ハノイで「Đông Kinh Nghĩa Thục(東京義塾)」が創設されましたが、フランス当局はこれを危険視し、1908年に閉鎖を命じ、関係者を逮捕しました。この義塾は、日本の近代教育をモデルにした学校で、ベトナムの近代化と独立を目指す青年たちに、近代的な教育を提供していました。

1909年には、フランスが日本政府に対して、日仏条約に基づきベトナム人留学生の国外退去を要求しました。これに対して、日本政府は外交的な配慮から要求を受け入れましたが、ベトナム留学生と日本の市民との間の友情は、この事件を通じてさらに強まったと言われています。

特に、ベトナムの独立運動家たちと日本の知識人や学生との間の文化交流が進み、相互の理解と共感が深まったと言われています。

一方、ファン・ポイ・チャウは、日本での活動がフランスの圧力により制限された後、中国に亡命していました。彼は広州でベトナム独立運動の活動を続けており、多くのベトナム人留学生や活動家と交流していたと言われています。

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ホーチミンに受け継がれた意思

ヴェルサイユ講和会議でのベトナムの独立請願

ホー・チ・ミン(当時の名前はグエン・アイ・クォック、阮愛国 – Nguyễn Ái Quốc)は、若い頃からヨーロッパやアメリカを含む多くの国々を放浪し、各地での労働者の権利や民族の自決権を求める運動に触れました。

フランス植民地下のベトナムの抑圧的な現状を目の当たりにし、彼はベトナム人民の自由と独立を求める情熱を深めました。

1919年のヴェルサイユ講和会議でのベトナムの独立請願が西洋列強に無視されたことは、彼にとって大きな打撃であり、それが彼の政治活動を本格的に始める契機となりました。

ソビエト連邦・中国訪問

失望したホー・チ・ミンは、新たな方向性を求めて1920年代初頭にソビエト連邦と中国を訪れました。

ソビエト連邦では、彼は共産主義の理念とマルクス・レーニン主義の教えに触れ、植民地国家の解放と労働者階級の解放が密接に関連しているとの認識を深めました。

中国では、彼は中国共産党の指導者たちと接触し、アジアの植民地国家の独立運動における共産主義の役割について学びました。特に、彼は広州でファン・ポイ・チャウとの歴史的な会談を持ち、ベトナムの独立運動の方向性について深く議論しました。

この会談は、ベトナムの独立運動の歴史において、両者の間の連帯感と友情を強化する重要な出来事となりました。ホー・チ・ミンは、ソビエトと中国での経験を通じて、共産主義がベトナムの独立と発展の鍵であるとの確信を持ち、その後の彼の政治活動の基盤となりました。

そして、1927年には、ベトナム国民党が創設され、ベトナムの独立を目指す政治運動が一層組織的で活発な形で展開されるようになりました。この動きは、後のベトナム独立運動の基盤を形成する重要な出発点となりました。

まとめ

ベトナムの独立運動は、フランスの植民地支配とその抵抗の歴史の中で形成されました。

アヘン戦争の影響、フランスと清国の間の戦争と条約、そしてホー・チ・ミンのリーダーシップと彼の政治活動の背景は、ベトナムの独立と発展の鍵を握る要素でした。

この記事を通じて、ベトナムの歴史の一部を深く理解する手助けとなることを願っています。

【第7話:ホーチミン氏とベトナム独立の軌跡は、こちらから!】

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