ベトナムの歴史シリーズ第4弾です。
この記事では、ベトナムの歴史における重要な二つの時代、李朝(1009-1225年)と陳朝(1225-1400年)に焦点を当てます。
中国影響下からの時代に別れを告げて、大越国を起こし、独自の政治・外交のもと、ベトナムの文化を形成していきました。しかしながら、大越国にも陰りが見えてきて、新たな国が立ち上がります。
これらの時代にどのような出来事があったのか、特に首都ハノイへの遷都とモンゴルの侵攻を3度に渡り撃退していった経緯について詳しく解説します。
【第3話:中国支配から独立・国家形成は、こちらから!】
李朝時代(Lý Dynasty, 1009-1225年)
前黎朝の衰退
大越国は、981年、宋が海陸2方面から侵攻があり、レ・ホアンはバクダン江で宋の水軍を全滅させる宋の陸軍を破りました。そのとき活躍したのが、前黎朝でしたが、それ以降衰退していき、政権が交代する状態となりました。
- 前黎朝の衰退:前黎朝(前黎朝, 980-1009年)は、レ・ホアン(Lê Hoàn, 黎桓)によって創設されました。彼は、中国の宋からの独立を守るために奮闘しました。しかし、彼の死後、前黎朝は次第に衰退し、内紛と混乱が続きました。
- 黎桓の死後の混乱:レ・ホアンの死後、彼の子孫たちは王位を巡って争い、前黎朝は安定を欠く時期に突入しました。この混乱は、外部からの侵攻に対する防御能力を弱め、国内の不満も高まらせました。
- 李公蘊(Lý Công Uẩn)の台頭:この混乱の中で、李公蘊(Lý Công Uẩn、後の李太祖)が台頭しました。彼はもともと前黎朝の高官であり、混乱を収拾するための能力とカリスマを持っていました。1009年、李公蘊は前黎朝の最後の皇帝、黎朝宗(Lê Long Đĩnh)の死後、高僧らの支持を受けて皇帝に即位し、自らを李太祖と名乗りました。
これにより、李朝が成立しました。
李朝の成立
1009年にリー・タイ・ト(Lý Thái Tổ、李太祖)が即位し、リー朝(李朝、Lý Cháo、1009年 – 1225年)が成立します。
リ・タイ・トは、ベトナムの李朝の創始者であり、ベトナム史上初の9代217年にわたる安定した王朝を築きました。
彼は、国号を「ダイ・ヴィェト」(Đại Việt, 大越)と定め、都をタン・ロン(Thăng Long、昇龍)に遷都しました。現在、この都市はハノイとして知られています。
彼はまた、仏教を奨励し、国内の安定と発展に努めました。
タン・ロンを首都に選んだのは下記の理由です。
- 戦略的な位置: タン・ロンは紅河デルタの中心に位置しており、地理的に防御が容易で、中国からの侵攻に対する防衛の要地でした。また、紅河デルタは肥沃な土地であり、国の経済基盤を支える上で重要な地域でした。
- 政治的・象徴的な意味: 遷都は新しい王朝の始まりを象徴し、リ・タイ・トの統治が新しい時代の幕開けであることを明示しました。タン・ロンという名前自体が「昇る龍」を意味し、これは新しい王朝が繁栄と安定をもたらすという吉兆を象徴していました。
- 宗教的・文化的な中心: タン・ロンは仏教の中心地でもあり、リ・タイ・トは仏教を国教として奨励しました。都をタン・ロンに遷都することで、仏教の影響を強め、国の統一と安定を図るとともに、文化的な発展を促進しました。
- 交通・交易の便: タン・ロンは紅河に近く、水上交通が発展していたため、国内外との交易が盛んに行える地点でした。これにより、都市は経済的にも繁栄しました。
李朝の衰退
成立初期には繁栄と安定を享受しましたが、次第に衰退の道を辿りました。
部の権力闘争、外部からの侵攻、経済の衰退、後継者問題など、多くの要因によって引き起こされました。これらの要因が相互に影響し合い、最終的には陳氏の台頭と新たな王朝の成立へとつながりました。
【ハノイにあるリータイトー像の場所】
12 P. Lê Lai, Lý Thái Tổ, Hoàn Kiếm, Hà Nội
陳朝時代(Trần Dynasty, 1225-1400年)
陳氏の一族は、福建または桂州からの移住民であり、現在のナムディン省とタイビン省を根拠地としていました。一族は主に漁業と水運業で生計を立てていたが、海賊業を行っていた伝承も存在します。
12世紀末の北ベトナムは、李朝の支配下で政権の腐敗が進行し、天災による飢饉が発生していました。これにより、民衆は窮乏し、治安は悪化。乂安、清化、寧平などの地域で民衆の反乱が頻発しました。
それらの混乱を収め、新たな王朝が誕生しました。
1225年、チャン・タイ・トン(Trần Thái Tông, 陳太宗)が即位し、チャン朝(Trần Dynasty、陳朝)が成立しました。
その時、中国を支配したフビライ・ハンは、元朝の皇帝として、周辺諸国に対して朝貢を求める政策を採りました。チャン朝ベトナムは当初、元朝の要求に抵抗していましたが、1257年には朝貢に応じる形を取りました。
しかし、陳朝は元朝の要求に完全に従うわけではなく、時折反抗的な態度を示しました。
これに対して、1257年にフビライ・ハンはベトナムに対する遠征軍を派遣しました。
モンゴルの侵攻とベトナムの抵抗
第一次モンゴル侵攻(1257年)
- 1257年、モンゴル帝国のフビライ・ハンは、ベトナムに対する最初の侵攻を開始しました。
- モンゴル軍は、ベトナムの首都タン・ロンを攻撃しましたが、陳太宗(Trần Thái Tông)とその将軍たちの奮闘により、モンゴル軍は撃退されました。
第二次モンゴル侵攻(1285年)
- 1285年、フビライ・ハンは再び大軍を派遣してベトナムに侵攻しました。
- この侵攻では、陳英宗(Trần Nhân Tông)とその名将トラン・ハン・トン(Trần Hưng Đạo)が中心となり、モンゴル軍との激しい戦いを繰り広げました。
- ベトナム軍は、巧妙な戦術と地の利を活かし、モンゴル軍を撃退しました。特に、バクダン江(Bạch Đằng River)での海戦は有名で、トラン・ハン・トン将軍が川底に鉄の杭を打ち込む戦術を用いて、モンゴルの水軍を大打撃を与えました。
第三次モンゴル侵攻(1287-1288年)
- 1287年、フビライ・ハンは三度目の侵攻を開始し、更に大規模な軍を派遣しました。
- この時もトラン・ハン・トン将軍が指揮を執り、1288年のバクダン江での海戦で再びモンゴル軍を撃退しました。この戦いでも、鉄の杭を用いた戦術が効果的でした。
- この勝利により、モンゴルはベトナム侵攻の企てを諦め、ベトナムは独立と安定を維持することができました。
陳朝はモンゴル帝国の侵攻を三度にわたり退けましたが、これらの戦争は国の資源を大いに消耗させました。それにより、政権を維持することが難しくなってきました。
まとめ
李朝と陳朝は、ベトナムの歴史における重要な時代であり、国の形成と発展に大いに寄与しました。
李朝の時代には、首都がタン・ロン(現在のハノイ)に遷都され、国の安定と発展が進みました。
陳朝時代には、モンゴルの侵攻を三度にわたり退け、国の独立を守り抜きました。
これらの時代は、ベトナムの国家形成とアイデンティティの基盤を築く上で重要な役割を果たしました。
【第5話:胡朝から阮朝までの動乱と欧州列強の到来は、こちらから!】
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