【ベトナムの歴史5】胡朝から阮朝までの動乱と欧州列強の到来

ベトナム旅行・生活

ベトナムの歴史シリーズ第5弾です。

第4弾では、モンゴル(元)との戦いに勝利し、国家としての地位を固めましたが、これから先は国が安定せず、短期間で政権が交代するという時代が続いていきます。

この記事では、特に15世紀から19世紀にかけてのベトナムの歴史に焦点を当て、国がどのようにして形成され、外部の勢力とどのように対峙してきたのかを深く掘り下げます。

ホー朝の興亡、後レイ朝の独立と発展、そしてグエン朝が誕生し、最終的にフランスの保護領となるまでの波乱に満ちた時代を、詳細にわたって解説します。

【第4話:李朝と陳朝時代の繁栄とモンゴルの侵攻は、こちら!】

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混乱期の始まり

ホー朝(胡朝)

1400年、ホー・クイ・リー(Hồ Quý Ly, 胡季犛)が自らを皇帝に宣言し、ホー朝(胡朝)を成立させました。

都をタン・ロン(Thăng Long, 昇龍)からタイ・ドゥオン(Thái Đường, 大唐)に遷都し、国号を大越から大暘に変更しました。

1407年、明の中国が侵攻し、ホー朝を滅ぼしました。

後レイ朝(後黎朝)

1418年、清華梁江ラムソン(藍山)にて、レロイ(Lê Lợi, 黎利)が反明軍の義兵を挙げ、中国の明の支配に対する抵抗を開始しました。彼の10年にわたる努力が実を結び、1428年にレロイは即位し、後レイ朝(後黎朝)を成立させることに成功しました。

これにより、ベトナムは中国・明の支配から独立を回復しました。

しかし、独立後もレロイは明への朝貢を続け、友好的な関係を築く一方で、明の制度を参考にして科挙の整備など、国内の政治体制の構築に努めました。

1471年には、レロイの孫であるレタントン(Lê Thánh Tông, 黎太宗)が、大規模な軍事遠征を指揮し、チャンパ国を征服。これにより、ベトナムはその領土の大部分を拡大し、国力を一層強化することに成功しました。

バク朝(莫朝)

1527年、マックダンズン(Mạc Đăng Dung, 莫登庸)は、後レイ朝の皇帝を廃位にし、自らを皇帝に宣言。これにより、新たな王朝であるバク朝(莫朝)が建国されました。

マックダンズンの力強い統治により、バク朝は一時期、ベトナムの大部分を支配下に置きました。

しかし、後レイ朝の支持者たちは、この新しい支配に対する抵抗を続けていました。

1592年になると、後レイ朝の勢力は再び盛り返し、首都ハノイを奪回する大規模な反撃を開始しました。この反撃が成功し、バク朝は南方に逃れる形となりました。

これにより、後レイ朝は一時的にその権威を回復しましたが、バク朝も南方でその勢力を保ち続けることとなりました。

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南北戦争

南北戦争のはじまりと勢力図

ハノイ奪還後は、形の上ではレイ朝(黎朝)が復活しましたが、実権は北部の鄭氏(チン)と南部の阮氏(グエン)に移り、両者は200年にわたる抗争を展開(ベトナム中世の南北戦争)し、混乱と腐敗が続いたと言われています。

wikiより1640年の勢力図

ピンクは莫朝、紫色は鄭氏、黄色は阮氏。緑はチャンパ、橙色は独立勢力・裒主

鄭氏(チン)と阮氏(グエン)の戦い

阮氏は、元々後レイ朝の支配下で、フエを拠点に中南部の支配を行っていました。

さらに、メコン・デルタやカンボジア王国領にも影響力を拡大し、ベトナム人の入植を奨励して「広南国」と称していました。

1627年には、鄭氏のチン・タク(Trịnh Tạc, 鄭澤)が阮氏のグエンフック(Nguyễn Phúc Nguyên, 阮懋徳)に対して大規模な攻撃を開始し、これが長い南北戦争の始まりとされます。

1630年代から1670年代にかけて、鄭氏と阮氏の間で繰り返される戦争が続き、鄭氏は北部を、阮氏は南部を支配し、現在のフエ省あたりに明確な境界が形成されました。

1672年と1673年には、鄭氏のチン・カン(Trịnh Căn, 鄭根)が南部に大規模な侵攻を試みましたが、阮氏のグエンフックタン(Nguyễn Phúc Tần)の指導の下で、これらの侵攻はいずれも撃退されました。

この後、両者の間で和平が結ばれ、南北の分裂が事実上確定しました。

北部は鄭氏の支配下にあり、後黎朝の皇帝は名目上の存在となり、南部は阮氏の支配下にあり、独自の発展を遂げました。

タイソン朝(西山朝)

1771年、阮氏の圧政に対抗するため、中部ベトナムの西山郡に住む阮文岳、阮文恵、阮文侶の三兄弟が農民を率いて反乱西山の乱(またはタイソンの乱)を起こしました。

1778年に中部ベトナムに西山朝を樹立しました。彼らはその後、南部の阮氏政権と北部の鄭氏政権を倒し、ベトナムを統一しました。

西山の乱は、単なる農民蜂起にとどまらず、広範な農民を組織化し、短期間であるものの、ベトナムに統一政権を築き、清朝の干渉を撃退しました。この反乱は、ベトナムの歴史上、重要な意義を持つとされています。

最終的には、フランスの支援を受けたグエン氏によって1802年に倒されましたが、約30年にわたりベトナム統一の戦いを続け、15世紀からの黎朝の形式的支配と、17世紀の鄭氏と阮氏による南北分断を終わらせました。

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グエン朝(阮朝)の成立と国号「越南:ベトナム」の誕生

wikiより

1802年: グエン・フエ(Nguyễn Huệ, 阮惠)が全ベトナムを統一し、グエン朝(阮朝)を建国しました。

グエンフックアン(Nguyễn Phúc Ánh、阮福暎)は、国号を「越南国」(Việt Nam, 越南)とし、都を中部のフエに置きました。

  • 彼は、中国の清を宗主国と認め、清からのベトナム統治を認められました。
  • 阮朝は清の制度を取り入れ、科挙制度などを実施して国家体制を整えました。
  • 阮福暎(後の嘉隆帝)は、1803年に清朝に対して国号を「南越」としたいと要請しましたが、清朝はこれを認めませんでした。その理由は、「南越」が紀元前に中国の広東・広西からベトナム北部にあった「南越国」で既に用いられていたからです。
  • 交渉が難航した後、最終的に1804年に「南」と「越」を逆にして「越南」とすることで合意が成立しました。これが「ベトナム」という国号の誕生します。

阮朝の成立とともに、ベトナムという国号が生まれ、新たな国家体制が整えられました。

阮朝は、その後約140年にわたりベトナムを統治し、最後の皇帝が1945年に退位するまで続きました。

国の制度と文化

グエン朝は、中央集権的な君主制を採用しました。皇帝が国の最高権力者であり、その下に官僚体制が形成されていました。

中国・儒教の影響を受けた官吏の選定システムがあり、科挙試験を通じて官僚が選ばれました。

また、ベトナムの歴史と文化を重視し、多くの文献や歴史書の編纂を行いました。

儒教が社会の基盤となり、教育と政府の運営に大きな影響を与えました。仏教も広く信仰され、寺院や仏像が全国に建設されました。

ベトナムの庶民の多くは農民であり、稲作を中心とした農業が基盤でしたが、国の建設のために重税が課され、多くの庶民は厳しい生活を強いられましたと言われています。

グエン朝(阮朝)が清の配下にあった理由

阮朝は清の配下に位置づけられ、清からの冊封を受ける体系に参加していましたが、これは実質的な中国の支配ではなく、より形式的で、相互利益に基づくものでした。

  1. 外交的・政治的安定の追求ベトナムは内乱と外敵からの侵攻に悩まされていました。清との友好関係を築くことで、外部からの安全を確保し、国内の安定を図ろうとしました。
  2. 清の承認と支援の必要性阮福暎が西山朝を倒してベトナムを統一した後、その統治の正当性を国際的に確立するために、清の皇帝からの承認を得ることが重要でした。
  3. 中華文明圏における「冊封体系」伝統的な流れでは、中国が「中華」(中心の文明)とされ、中国の皇帝からの冊封を受けることで、その独立と安全を保証されました。これは、形式的なものである場合も多く、対等な国際関係を維持するための儀礼的なものでした。阮朝もこの体系に参加し、清からの冊封を受けることで、国際的な地位を確立しました。
  4. 清との貿易と文化交流清との友好関係は、貿易と文化の交流をもたらしました。阮朝は、清との関係を通じて、経済的利益を享受し、また、儒教や行政制度などの中国文化を取り入れ、国の統治体系を整えることができました。

フランスとの関係

フランスとグエン朝との関係は、初期の宣教活動から始まり、政治的・軍事的な連携を経て、最終的にはベトナムの植民地化に至りました。

この過程で、グエン朝はフランスの支援を受けつつも、次第にその主権を失い、名目上の存在となっていったのです。

  1. 宣教活動:17世紀フランスのカトリック宣教師がベトナムに到達し、宣教活動を開始
  2. 宗教的・政治的利害の一致:19世紀初頭、カトリック教徒の保護とキリスト教の布教の自由を求めるフランスの宣教師と、外部の支援を求めるグエン朝の利害が一致し、フランスは影響力を強めることができました。グエン朝は、国内外の安定を図り、西洋の技術や知識を取り入れようとしました。
  3. 軍事的支援と条約:19世紀中頃、フランスはグエン朝に対して軍事的支援を提供し、これを受けてグエン朝はフランスとの間にいくつかの条約を締結しました。
  4. 植民地化:19世紀後半、フランスは軍事的な力を背景に、グエン朝との条約を更に強化し、ベトナム全土を実質的に支配下に置きました。1887年には、ベトナムを含むインドシナ半島の地域がフランス領インドシナとされ、植民地化が完成しました。
  5. グエン朝の名目上の存続:フランスはベトナムを植民地としたものの、グエン朝は名目上は存続し、フランスの代理として地域を統治する形が取られました。

まとめ

この記事では、ベトナムの歴史における重要な時代、特に15世紀から19世紀にかけての混乱と統一の過程を概観しました。

この期間、ベトナムは内外の圧力にさらされながらも、独自の国家を形成し、維持してきました。

ホー朝の短い期間から始まり、後レイ朝の独立、バク朝の台頭、そして南北の分裂と戦争を経て、最終的にはグエン朝がベトナムを統一しました。

この過程で、ベトナムは中国の影響を受けつつ、19世紀には、フランスの植民地支配が始まりますが、それまでのベトナムの歴史は、国の困難と栄光、そして不屈の精神が刻まれた重要な時代であります。

これらの歴史的背景は、現代のベトナム社会に深く影響を与えており、その理解は現代ベトナムを理解する鍵となります。

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