【ベトナムの歴史3】中国支配から独立・国家「大越」形成

ベトナム旅行・生活

ベトナムの歴史シリーズ第3弾です。

ベトナムの中古代の歴史は、中国の支配との闘争と、その後の独立を中心に展開されます。

前回は、ヴァンラン滅亡から漢の統治に徐々に移り変わり、中国文化が入ってきたお話をしました。

この記事では、ベトナムの歴史における重要な中国とのかかわりについて、出来事を時系列に沿って詳細に解説します。

ハイ・バー・チュンの反乱から、北部では大越国の成立と発展、そして中南部ではチャンパ国の繁栄まで、ベトナムの古代史の戦いの歴史をみていきます。

【第2話:ヴァンラン国滅亡から漢の統治へは、こちらから!】

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ハイ・バー・チュンの反乱

1世紀後半、現在のベトナム北部地域において、漢の重税や圧政に対する不満が高まっていました。

この背景の中、ハイ・バー・チュン(Hai Bà Trưng)という二人の姉妹は、漢の統治に対して大規模な反乱(⻄暦40〜43 年ハイ・バー・チュンの乱)を起こしました。

彼女たちのリーダーシップの下、多くのベトナム人が彼女たちのもとに集まり、独立を求める運動が高まりました。彼女たちは65の城を次々と制圧し、短期間で大部分の北部ベトナムを掌握しました。

ハイ・バー・チュン姉妹の反乱は、ベトナムの歴史において女性が主導する大規模な反乱として特筆されます。彼女たちは、漢の支配からの解放とベトナムの独立を目指して戦いました。

しかし、この成功も長くは続きませんでした。

後漢の伏汲将軍・馬援は、大軍を率いてベトナムに侵攻し、激しい戦闘の末にハイ・バー・チュン姉妹の反乱を鎮圧しました。

反乱が鎮圧された後、ベトナム北部は再び漢の支配下に戻りましたが、ハイ・バー・チュン姉妹の勇気と彼女たちの反乱は、ベトナムの歴史において重要な出来事として語り継がれています。

【Hai Ba Trung Templeの位置】

2V64+P7G, Đồng Nhân, Hai Bà Trưng, Hà Nội

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中部・南部の戦い

黄色:ラムアップ、青:大越 WIKIより

ラムアップ(林邑, Lâm Ấp)国の成立

ベトナム中部の日南象林地域(現在のトゥアティエン・フエ省、ダナン市、クアンナム省、ビンディン省などを含む広範な地域を指している可能性があります。)は、後漢の支配下にありましたが、地域の住民たちは漢の重税や圧政に不満を持っていました。

この不満の中、2世紀から3世紀にかけて、ク・リエン(区憐, Khu Liên)という有力な指導者が現れ、後漢に対して反乱を起こしました。

ク・リエンは、地域の住民たちを結集し、漢の軍隊と数多くの戦闘を繰り広げました。彼の戦術とカリスマ性により、多くの勝利を収め、後漢の支配から一時的にこの地域を解放することに成功しました。

しかし、完全な独立を実現するには、後漢との和平が必要でした。

ク・リエンは、後漢との交渉を進め、和睦を結ぶことに成功しました。

和平の結果、ク・リエンは新たな国、ラムアップ(林邑, Lâm Ấp)国を建国しました。

ラムアップ国は、ベトナムの中部地域を中心として成立し、独自の文化と経済を築き上げました。

チャンパ(占城,Chăm Pa)国への変遷

しかしながら、ラムアップ国の統治期間は短命でした。

外部の大国、特に中国の後漢や南方の勢力との関係が緊張しており、国内の統治体制や行政機構も未熟であったため、国の安定を保つのが難しかったと言われてます。

7世紀頃になると、ラムアップ国は時代の変遷とともに発展を遂げ、チャンパ国(占城,Chăm Pa)として再編されました。

チャンパ国は、ベトナム中部から南部にかけての海岸地域を中心に繁栄し、ラムアップ国の基盤を受け継ぎました。

この国は、交易ルートの確立により、インド、東南アジア、中国との繋がりを深めました。特に、インドからの商人や宣教師によって、ヒンズー教や仏教の教えが持ち込まれました。

  • チャンパ国の文化:インドの芸術、建築様式、宗教的儀式が大きな影響を与えました。これにより、美しい寺院や神殿が建設され、これらは今日までのベトナム文化にも色濃く残っています。
  • ヒンズー教を推奨:チャンパの王や貴族層は、ヒンズー教を奨励し、これを通じて国の統一や安定を図り、王権の正当性を強化しました。
  • クメール帝国との交流:チャンパ国は、近隣のクメール帝国などとの交流や競争を通じて、独自の宗教的・文化的アイデンティティを形成し、その影響は現代のベトナム文化にも引き継がれています。

このように、ラムアップ国の短命な統治から、チャンパ国の長期的な繁栄へと、ベトナム中部の歴史は大きな変遷を遂げました。

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北部の戦い

大越(Đại Việt)は、後のベトナム北部地域を中心とした国家で、10世紀から19世紀初頭まで存在しました。

この時代、大越は中国の支配から独立を果たし、独自の文化と統治体系を築き上げました。

漢・唐の支配(紀元前111年 – 939年)

紀元前111年から939年までの期間、ベトナム北部地域は中国の支配下にありました。

中部・南部ではすでに独立を果たしている一方、中国に近い北部のエリアでは、引き続き支配されるという状態でした。

この期間、中国の文化や制度がベトナムに導入されましたが、地域の住民は中国の支配に対して抵抗を続けました。

バクダン江の戦い(939年)

ズオン・ディエン・ゲが暗殺された後、彼の婿であるゴ・クエン(吳權,Ngô Quyền)が南漢に対抗する力を組織しました。

939年、南漢が大船団を派遣し、ベトナムを再征服しようとしました。しかし、ゴ・クエンは巧妙な計略を用いて、バクダン(白藤、Bạch Đằng )江で南漢の船団を全滅させました。

この勝利により、ゴ・クエンはベトナムの独立を宣言し、自らを皇帝としました。

これにより、約1000年にわたる中国の支配が終わり、ベトナムは再び独立国家を形成しました。

【バクダン江の場所】

XQ78+8C6, Gia Đức, Thủy Nguyên, Hải Phòng

大越国の成立(968年)

  • 944年:ゴ・クエン(吳權,Ngô Quyền)の死後、内紛が続き、紅河デルタ地区の土豪が群雄割拠し、十二使君(12人の土豪)時代となりました。
  • 968年:ディン・ボ・リン(丁部領, Đinh Bộ Lĩnh)が帝王となり、都をホアウル(Hoalu, 貢納)とし、国号をダイ・コ・ヴィェト(大瞿越=大越国, Đại Cồ Việt)としました。
  • 981年:宋が海陸2方面から侵攻。レ・ホアン(Lê Hoàn, 黎桓)はバクダン江(Bạch Đằng, 白藤)で宋の水軍を全滅させ、チ・ラン(Chi Lăng, 支稜)関で宋の陸軍を破りました。

国家の安定と発展のために多大な努力

大越時代は、ベトナムの歴史における重要な時期で、国の独立と安定を追求した結果、新たな国家の形成へと繋がりました。

この時代、ベトナムは中国の支配からの自由を勝ち取るために、数多くの戦争と困難に立ち向かいました。独立を果たすと同時に、強固で統一された国家体制の確立に向けた努力が続けられ、内政の安定と法の整備が進められました。

  1. 強固な国家体制の構築:中央集権的な国家体制の構築と、地方の反乱を厳しく鎮圧
  2. 経済と軍事の発展:農業経済の強化、防災対策、軍事力の強化
  3. 教育と文化の振興:教育制度の確立、文化の発展と外国文化の取り入れ
  4. 柔軟な外交政策:大国との関係を維持しつつ、独立と主権を守るための外交戦略

文化の面では、中国やインドの影響を受けつつも、ベトナム独自の文化とアイデンティティを大切にし、これを発展させる方向を模索しました。例えば、外国の文化要素を取り入れながらも、独自の言語、芸術、建築様式を育んでいったのです。

これらの歴史的な取り組みは、現代のベトナムが国際社会での立ち位置を築く上で、持続可能な発展を目指す際の重要な教訓となっています。

まとめ

ベトナムの歴史は、中国の支配からの独立と自身のアイデンティティを築くプロセスを中心に展開されています。ハイ・バー・チュンの反乱は、女性が主導する大規模な反乱として特筆され、ベトナム人の独立心を象徴しています。

また、大越国の成立と発展は、ベトナムが独立国家としての地位を築く上での重要なステップであり、その後のベトナムの歴史に大きな影響を与えました。チャンパ国は、ベトナム中部から南部にかけての海岸地域を中心に繁栄し、独自の文化を築き上げました。

これらの出来事は、現代のベトナムがどのように形成されたのかを理解する上で、非常に重要な知識となります。

【第4話:李朝と陳朝時代の繁栄とモンゴルの侵攻は、こちらから!】

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