ベトナムの歴史シリーズ第2弾です。
ベトナムの歴史は、古代から現代までさまざまな国家、文化、そして外国との関係を通じて形成されてきました。
この記事では、ヴァンラン国の滅亡から漢の統治時代にかけてのベトナムの歴史を詳しく解説します。
この時代は、ベトナムが外部の影響を受けつつも、その独自のアイデンティティを保ち続けた象徴的な時代です。アン・ズオン・ヴォンの活躍からコーロア城の建設、ナム・ビエット国の成立、そして中国の政治体制と文化の影響について、具体的な事例とともに深く掘り下げていきます。
【第1話:ヴァンラン国家の成立とフン・ヴォン王の伝説は、こちらから!】
ヴァンラン国の滅亡とアウラック国(奧雒, Âu Lạc)の成立
アン・ズオン・ヴォン(安陽王, An Dương Vương)
紀元前287年、ヴァンラン(文郎, Văn Lang)国は、統治体制の弱さや、部族間の対立、社会経済の変動など、国内の不安定要因が発生しており、また、外部からの侵略や圧力が増してきます。
特に、北方の強大な部族の1つであるアン・ズオン・ヴォン(安陽王, An Dương Vương)との対立が顕著になり、ついにヴァンラン国の滅亡し、アウラック国(奧雒, Âu Lạc)が建国されました。
東南アジアで最古・最大の城 コーロア(古螺, Cổ Loa)
彼は強大な力を持つ城、コーロア(古螺, Cổ Loa)を建設し、国の中心としました。
彼のリーダーシップの下で、ヴァンラン国の伝統を受け継ぎつつも、新しい文化や統治体制を築き上げました。金属加工技術の進化、特に銅や鉄の使用が増えたことが指摘されています。
アウラック国の時代には、農業が主要な生業として確立されていました。稲作が中心であり、水田を利用した集約的な農業が行われていたと考えられています。
また、手工業や商業も発展しており、特にコーロア周辺では交易が盛んだったとされています。
ナム・ビエット(南越, Nam Việt)国の成立
紀元前207年頃、アウラック国の繁栄は長くは続かず、南からの侵略者、チョウ・タ(趙陀, Triệu Đà)によって滅ぼされました。
彼はかつて秦の将軍であったが、秦の滅亡後、独自の勢力を築き上げ、後にナム・ビエット国(南越, Nam Việt)を建国しました。
彼の治世下で、この国は中国広東から北部ベトナムまでの広大な領土を持つ国となりました。
中国の政治体制の取り入れ
この時代、ナム・ビエット国は、中国の文化や技術、行政制度などの影響を大きく受けました。
それは、チョウ・タの中国での経験から、中国の中央集権的な統治体制を取り入れることで、国内の安定化を目指したものです。
- 官僚制度の導入: 中国の官僚制度を採用し、地方の有力者を行政に組み込むことで統治の効率を上げました。
- 試験制度の採用: 行政の要職に任命試験を導入し、統治の質を向上させました。
- 軍事組織の強化: 軍の階級制度や訓練を強化し、軍隊を強大にしました。
- 法律と刑罰の制度: 中国の法制度を基に、新たな法律や刑罰の規定を導入し、社会の秩序を維持しました。
- 土地制度の改革: 中央政府が土地を所有し、農民に貸し出す制度を採用し、土地の収益と農民の生活の安定を図りました。
儒教・道教の推進
宗教的には、先住民のアニミズムや祖先崇拝が主要でありながら、中国の影響を受けて、道教や仏教の要素も取り入れられるようになりました。
儒教は、社会の秩序や道徳、家族の価値を重視する教えであり、行政や教育の基盤として導入されました。特に、官僚制度の確立や試験制度の導入において、儒教の影響は顕著でした。ベトナムの知識層や官僚たちは、儒教の経典を学び、それを基に行政や法制度を構築しました。
道教は、自然や宇宙の調和を重視する宗教であり、ベトナムのアニミズムや祖先崇拝と相性が良かった。道教の神々や祭り、儀式がベトナムの伝統的な信仰と結びつき、新しい形の宗教的実践が生まれました。
漢の武帝と南越国の滅亡:ベトナムの三郡時代の幕開け
中国による支配の開始
紀元前111年、ベトナムの歴史は新たなターニングポイントを迎えました。
中国の強大な帝国、漢の武帝が南越国を滅ぼすという出来事が起こりました。
しかし、漢の拡大志向と軍事力の前に、南越国は立ち向かうことができませんでした。
漢の武帝の勝利により、ベトナムの北部と中部は中国の直接的な統治下に入りました。
漢はこの地域に
- ギャオ・チー(交趾, Giao Chỉ)
- クウ・チャン(九真, Cửu Chân)
- ニャット・ナム(日南, Nhật Nam)
の三郡を設置しました。
これは、ベトナム地域が中国の直接統治を受けることとなる新しい時代の幕開けを意味していました。
中国文化との交わり
漢による直接統治により、下記のような影響がでてきました!
- 言語と文字: 中国の統治下で、ベトナムでは漢字が公式の文字として使用されました。この影響は、ベトナムが独立した後も続き、ベトナム語の中にも多くの漢語が取り入れられました。
- 儒教の普及: 中国の統治下で、儒教がベトナムの教育や行政に大きな影響を与えました。官僚制度や試験制度も中国のものが導入され、ベトナムの知識層や官僚たちは儒教の教えを学びました。
- 技術と芸術: 中国からはさまざまな技術や芸術がベトナムに伝えられました。陶磁器、絹織物、書道、絵画など、多くの分野で中国の技術や芸術がベトナムに取り入れられ、独自の発展を遂げました。
- 祭祀と風習: 中国の伝統的な祭祀や風習もベトナムに取り入れられました。例えば、春節や中秋節などの中国の伝統的な祭りがベトナムで広く祝われるようになりました。
- 行政制度: 中国の行政制度や法律もベトナムに導入されました。特に、郡や県といった行政単位の制度や、法律の体系は中国のものが基になっています。
中国影響下の文化
しかし、これらの中国文化や技術の導入にもかかわらず、ベトナム人は自らの文化や伝統、言語を失うことなく、これらの影響を取り入れて独自の発展を遂げていきました。
ベトナムの音楽、舞踏、祭祀など、多くの分野でベトナム独自の文化が保持され、発展していきました。
- 音楽:「Nhã nhạc」はベトナムの宮廷音楽で、中国の影響を受けつつ、ベトナム独特の楽器と演奏スタイルを持っています。
- 詩文:「Lục Vân Tiên」はベトナムの古典詩で、中国の詩の形式を基にしながら、ベトナムの言語と文化を反映しています。
- 宗派:「Trúc Lâm 竹林宗」:これはベトナム独自の禅宗で、13世紀に僧侶であり詩人でもあったTrần Nhân Tông 陳仁宗によって創設されました。中国の禅仏教の影響を受けつつ、ベトナムの文化と哲学を組み込んでいます。
この時期は、ベトナムの歴史において外部の影響を受けつつも、そのアイデンティティを保ち続けた象徴的な時代とも言えるでしょう。
まとめ
ベトナム北部の歴史は、外部の影響と内部の変革を通じて独自の道を歩んできました。
ヴァンラン国の滅亡から漢の統治下、そしてその中での中国文化との交わりを通じて、ベトナムは数多くの試練と変革を経験し、ベトナムの歴史における重要な転換期となりました。
この時代、ベトナムは中国の強い影響を受けつつ、アン・ズオン・ヴォンのリーダーシップ、コーロア城の建設、ナム・ビエット国の成立などを通じて、独自の文化とアイデンティティを築いていきました。
これらの歴史的な出来事は、現代のベトナムのアイデンティティや文化の基盤を形成しており、ベトナムの歴史を知ることは、その土地と人々の魅力をより深く理解する鍵となります。
【第3話:中国支配から独立・国家形成は、こちらから!】
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